陶友祭 開会あいさつ。
みなさん、こんにちは。 あいにくの空模様の中、陶友祭にお越しいただきありがとうございます。皆さんに支えられて、陶友も23年を迎え、今日は22回目の陶友祭です。陶友祭は、仲間たちの日ごろの働きぶりの成果を披露し、皆さんとの交流を深める場です。同時に、仲間たちの給料を稼ぐ大事な機会ですので、どうか皆さん、予算の許す限りたくさんお買い上げください。労働者庶民から絞り上げ、大企業だけを太らせるアベノノミクスに対抗し、お互いにお腹も心もホンワカ豊かになる陶友祭でありたいと思います。まずは、財布のひもの件、よろしくお願いします。 さて、今年は戦後70年。ご案内のようにテーマを「平和だから・・・笑える、歌える、語り合える」としました。安倍政権は多くの国民の反対の声を無視して、戦後初めて集団的自衛権を認める解釈改憲を行い、「安全保障法制」という名の「戦争法」を強行成立させました。 その中で、私たちは「戦争と障害者の歴史」について学んできました。戦争は、かけがえのない命を奪いたくさんの障害者を作り出してきました。そればかりか、たとえばあの学童疎開。空襲から大事な子どもたちの命を守る政策だったと思っている方もいるかもしれませんが、実は将来の兵隊を確保するのが目的だったのですね。したがって、障害のある子どもたちは学童疎開政策から取り残され、戦火の中に身をさらさなければなりませんでした。 また、あのナチス・ドイツの時代のホロコースト、600万人にも及ぶユダヤ人の大量虐殺は「人類史上、最大の悲劇」としてあまりにも有名ですが、実はこれは最近明らかになったことですが、いわば「リハーサル」としておよそ20万人ものドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされた病人たちがガス室などで殺害されたことについてはあまり知られていません。これは、5年前にドイツ精神医学精神療法神経学会が「過去に患者を殺したことががる」と明らかにし謝罪したことで知られるようになりました。今日、夜11時からNHKETV特集「それはホロコーストの"リハーサル"だった~障害者虐殺70年目の真実~」という番組で放送されるのでぜひご覧ください。 このように洋の東西を問わず、戦争の時代には、戦争に役にたつかどうかという唯一の基準で人間の価値が図られ、障害のある人たちは足手まとい、邪魔者扱いされ、、「穀つぶし」「非国民」として差別され真っ先に人権を奪われたのです。 「戦争と福祉は両立しない」「平和であってこそ一人一人の尊厳は守れるんだ」…これが、私たちが歴史から学んだ結論です。 みなさん、「まさかあんなひどい時代は来ないだろう」と思うかもしれません。しかし、「戦争は最大の人権破壊」というその本質は変わりません。既に戦争する国づくりは進行しています。年金や生活保護、介護、社会保障と福祉を切り捨てながら軍事予算は5兆円を超え戦後最大になろうとしています。 安倍さんは中身も明らかにしないまま「一億層活躍社会」などと打ち上げて悦に入っていますが、「一億」などがついたら「一億総玉砕」「一億総懺悔」などろくなことはありません。憲法が一番大事にしているのは「一億総」同じなどではない、みんなひとくくりではない、一人一人が尊厳を持っているということなんですね。その個人の尊厳を守るために権力の勝手横暴をを許さない、これが憲法なんですね。この憲法を踏みにじる、立憲主義の破壊に、多くの国民が怒り、「戦争法廃止、立憲主義と民主主義をも守ろう」と大きな声を上げ続けています。障害のある仲間たちの未来もこの方向にこそあるのではないでしょうか? ・・・こういう話をしていたらいくら時間があっても足りませんから・・・。 ・・・今日は、仲間たちとそれを取り巻く社会や歴史のことにも想像を働かせていただきながら、平和の尊さ、一人一人がその尊厳にふさわしく自分らしく生きることの大切さを確認し共有できる意義ある楽しい陶友祭にしたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。
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ふみさんが陶友祭で発表するスピーチが、リハーサルで実習生の感動を呼んでいます。
それはなぜでしょうか?どういうことでしょうか? 改めて考えてみたいと思います。 ■「助けて!」といえない人生 関連する4年前の所長のブログです。 貼り付けておきます。 陶友で一番大事なこと。 仕事も大事、社会人として生きることも大事。 でも1番大事なことは、「誰かに“助けて”といえること」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「人間らしく生きたい 10・28生活保護アクションin 日比谷 25条大集会」のアピールは、次のように結んでいます。 「・・・私たちは、無差別平等に生きる憲法と制度を持っている。 貧困に命を奪われないためのしくみはある。 私たちはもっと「助けて」と言っていいし、 私たちはもっと「助けて」と言われていい。 生活保護制度という命の砦を、私たちは守り、 より良いものに作り変えていく義務がある。 誰一人、貧困に殺されない社会。 そんな当たり前のために、私たちは声を上げ続ける。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ NO.2142 「助けて!」といえない人生 人間の生きる力とは一体なんなのでしょうか。 人間らしさとは一体どういうことなのでしょうか。 みのり4143 陶友の職員たなかが、「誰かを頼れる力 」 というエントリーで、具合が悪くても我慢して、言わない仲間のことについて書いています。 ・・・・・・・・・・・以下、引用・・・・・・・・・・・・・・・・ (たなか)『ふみさんちょっといい?具合が悪いんですか?』 (ふみさん)「・・・うん、ちょっとね。でも大丈夫。」 ニコッと困ったように笑います。 (たなか)『具合が悪かったら、ちゃんと言ってくださいね。』 (ふみさん)「・・・うん。具合が悪いって言ったら帰らないといけないと思って。そんなこと言っちゃいけんとかな・・・と思って」 これは、ふみさんのいつものセリフです。 いつも、どこでも、具合が悪くても我慢してやり過ごし、具合が悪いことは言わないのです。 「迷惑がかかるから」といいます。 そのたび「職員や家族には、具合が悪かったりしたらちゃんと言ってください。誰も迷惑なんて思わないし、言ってくれたほうがいいんですよ。我慢してもっと悪くなったら大変だから。」と話します。 ふみさんはそのたびにニコッと困ったように笑います。 でも、毎回ふみさんは我慢するのです。 陶友で一番大事なこと。 仕事も大事、社会人として生きることも大事。 でも1番大事なことは、「誰かに“助けて”といえること」 人は1人では生きていけません。 互いに支えあって生きていきます。 仲間たちにとっても、それは同じです。 1人でできないことも、誰かと一緒だったらできるようになるかもしれない。 おなかが痛いときはさすってくれたり、見守ってくれる人がいると心強いと思います。 ふみさんは今まで、障害があるがゆえに我慢したことや、言いたいことを言えなかったかもしれません。 苦しくてもグッと堪えたこともあるかもしれません。 でも、つらいときに「助けて。」と誰かに言えたら、少し楽になって、より生きやすくなるかもしれません。 言いたいことや、思いを伝えることは、生きる上で大きな力になると思うのです。 ・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ふみさんは、聴覚障害がありほとんど聞こえません。 離島で育ち手話も習う機会がありませんでした。 縁あって結婚し子どもに恵まれましたが、その娘さんの事故死をきっかけに一人ぼっちになってしまったのです。 (参考過去ログ) ■NO.1362 「みんな幸せになる権利があるんだ!」・・・持病が悪化してしまった。 ■NO.1369 「みんなちがって、みんないい」なんだ。 ■NO.1918 石焼安納芋”ふみさんの幸せの黄色い蜜芋(安納芋)”が本格始動しました。 「助けてといえない世代」が話題になったのはつい数年前。 就職氷河期に正規で職に就けず、派遣やフリーターをしながらついには路上生活にまで落ち込んでいく若者達。 「こんな生活しかできないのは自分のせいだ・・・」 「自己責任」の呪縛にとらわれ、生活保護を申請したり、相談窓口に行くことさえもしない。他人に助けてなんてとても言えない、助けを求めることさえも思いつかない・・・そんな青年達のことがテレビで報告されていました。 ふみさんもまたその障害を背負いながら、助けてと言えない人生を送ってきたのです。 時々腹が立ってしまう。 その「卑屈さ」に! そして、そこまで追い込んでしまった彼女の人生の周辺に、時代に。 「人は1人では生きていけません。 互いに支えあって生きていきます。」 そんなこと当たり前じゃないか! その当たり前が通用しない。 障害者自立支援法は、障害を自己責任として、その費用の一部負担を強引に押し付けてきました。 「人間は一人ではちっぽけで弱い存在だろう。あなたは一人では空を飛ぶことが出来ますか。 しかし、人間は、人類の一員としてなら自由に空も飛べる、地球の裏側まででも月までだって行けるだろ?・・・人間は類としてつながることによって個の限界を超え、限りない発達の可能性を持ってるんだよ。」 実習に来る学生に、オリエンテーションで必ず話すことです。 「それを実践し証明するのが私たちのたちの仕事だ」と。 連帯し絆を結び、その人間らしさを取り戻す・・・。 俺たちの現場、福祉の現場は日々その中にあるんじゃないのかな。 分断と孤立の中で洗脳された「自己責任」。 えらそうなことを言っても、傍らにいるふみさんを未だにその呪縛から解放してあげることが出来ていない。 誰かが「人間は類的存在だ」と言っていたが、現代はますます「類的自覚」を求めているのではないだろうか。 震災後、特に・・・。 追記:こちらも同じような仲間の話・・・ ■NO.2691 困ったことはちゃんと言うてよな!それが「自立」ってことばい。 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-2496.html
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実習生は、参考に、読んでみてください。
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全国から4000人が集った「人間らしく生きたい 10・28生活保護アクションin 日比谷 25条大集会」
「基調報告」と「集会アピール」、「仲間の訴え」も紹介します。 コメント欄に参加者の報告発言動画を紹介しています。 ホームページはこちら→http://25-action.net/index.html まずは呼びかけ人の一言から。 http://25-action.net/yobikake.html こちらから、より深く学びましょう。 25条と生活保護基準→http://25-action.net/article25.html ★基調報告
★集会アピール
★仲間の訴え
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実習生のみなさんも、未読の職員もぜひ読んでください。
NO.90 なぜ「陶芸」だったのか・・・・陶友の歴史2 陶友の歴史・・・・2 なぜ「陶芸」だったのか。 答えは簡単。陶芸を必要とする仲間がいたということ。 Y君は、自閉症と軽度の知的障害だった。5年間付き合った。 こだわりの強さは、相当なもので、自分が気に入ったものはとことんこだわる。 一つの音楽が気になると、運動会の練習の場所に行き「レコードください」と粘ったり、歯医者の機械が気になると、病院に行ってずーっと見て、困らせる。 極めつけは、葬式が気になり、よその葬式に参列し涙を流し・・・香典泥棒に間違われて警察に通報される・・・。 そのこだわりによる問題行動は上げればキリがない。 気に入らないものは全く見向きもしなかった。 作業にならなかった。毎日毎日追いかけっこだった。 何がきっかけか全く分からなかったが、とにかくある日突然,粘土に興味を持った。 元来器用だったので、めきめき上達した。当時の施設の稼ぎ頭だった。 生き生きしていた。 ところが、当時は施設も少なく、いつまでもそこにいることは出来なかった。 出来るだけ多くの人に利用してもらうためということで、その施設の内規で、1人の利用は5年に限られていた。 かくて5年が経過し、Y君は施設を退所する事となった。 例に漏れず、母親は必死になって次の行き場所を探した。しかし、どこも彼に合う所がなく在宅となった。 在宅で楽しみややりがいを失った彼は、精神的に不安定になった。 安定剤を服用する。薬で顔もむくみ別人のようになっていた。 数ヵ月後、お母さんからの相談で話を聞いた。 近くにデイサービスの施設が出来、そこに週1回の陶芸教室があり、通うようになったとの事。そんなある日、バス停に迎えに言ったお母さんのその鼻の前に両手をかざした彼は「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と、ピョンピョン飛び跳ねて喜んだという。 「やっぱり粘土が1番好きなんですねぇ。」とお母さん。 Y君のその姿を思い浮かべ、お母さんの嬉しそうな顔を見て、想いがグーっと前に進んだ。 陶芸をやる作業所が必要だ。作ろうと。 誰だって、俺はこれが一番好きだというものがある。 普通、多くの人は、1番じゃなくとも2番目のことでも何とか我慢し妥協し、適応していく。 そういう力がある。 しかし彼の自閉症はそういう選択肢を閉ざしてしまっていた。 そのことで逆に、私に「1番好きなことして働きたいんだ、生きたいんだ」という強いメッセージを送った。 「こだわりが強く、適応力がない」彼が、実は生きるうえで大切なものを教えてくれたのだ。 「妥協せず自分の好きなことを大事に、自分らしく生きて行きたい。」と。 施設の都合や社会の制約や、自分の意志以外の力で自分の人生が決められていく。 私はそんな生き方はとても受け入れられない。 うまく言葉で表現できない彼が、再びであった粘土こねの喜びを「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と飛び跳ねて表現した。 この喜びは、みんなの喜びにつながるもの。 職場をやめ、ゼロから作業所つくりに取り掛かろうと決意するに十分な出来事だった。 苦労するに値する価値がある。 こうして、ただ一般的に、行き場のない障害を持つ仲間たちの作業所を作るというのではなく、自分達が好きでやりたい陶芸の作業所を・・・。こうして、まだ見えぬ作業所の方向が決まったのだった。 私自身も、我流ながら陶芸の修行をして、そこそこのものになっていた。 当時の数年間は、一通りの陶芸展で、入選入賞を重ね、ちょうど市美術展で市長賞をとった頃で、そういう面でも準備は整いつつあった。 どこまでやれるか、不安はなかった。 行くべき道をつかんだことが嬉しかった。 NO.93 心に届いて欲しい・・・・陶友の歴史(4) 資金作りのため募金について書きます。ちょっと長いですが、ぜひ読んで欲しいです。 「呼びかけ」はB4版にいっぱいに心をこめた楷書体だった。初心に帰るためにも、ここに再掲する。もちろん手書きしか出来なかった。 先輩や友人、知人の皆さんへ。 めぐり来る春の息吹が感じられるこのごろです。皆さん、元気でご活躍のこととおもいます。 さて、私は、このたび、別紙の通り障害者の新しい仕事場を作る準備にとりかかりました。 つきましては、皆さんの応援をいただきたく、こうしてお願いすることにしました。よろしくお願いします。 1)、私は大学卒業後13年間、民間の障害者施設で働いてきました。 知恵遅れの(まま)青年・成人期障害者が、家から通いながら作業に取り組み、生活と仕事の訓練をする施設と考えていいです。 陶芸班の担当指導員をしながら、誠実に真面目に仕事をしてきたと、ひそかに自負しているところです。 2)、仲間たちと仕事をする中で、 「労働」を通じてコトバや自己表現が豊かになったり、様々な社会性を身につけていく姿に学びながら、 「みんなといっしょに働き、社会に参加すること」=「労働」こそが、青年・成人期障害者の成長と発達の源泉であると言う確信を、改めて強くしています。 1人の青年がいました。軽度の知的障害と自閉症の人です。 彼は陶芸が好きで、これをすることにより、心が非常に安定してきました。 しかし、施設での訓練期間を終え卒園しましたが、自分にに合う場がなく在宅となり、また心が不安定になり、安定剤の服用で顔つきまで変わっていったのです。 そのことをもきっかけにしながら私は、障害者の社会参加についてもっと深く考えるようになっていきました。 3)、私自身は、より自分らしく生きて働くことにこだわり、職業も選び様々な社会的な活動にも参加してきました。 しかし彼らにはまだごく限られた道しか準備されておらず、それに適応できなければ、自立も参加の条件も極めて狭められていると言うのが今日の実態です。 4)生産が高まれば、多様な価値が生み出され、人間の価値観も個性も多様化してきます。 より豊かでより自由な個々人の発達と成長のためには、障害者にこそその障害に合った多様な選択肢が準備されなくてはなりません。 今日の障害者福祉は、与える側からの一定の制度は作られていますが、利用者、まさに権利主体の要求に沿った取り組みは、まだまだ遅れています。(自由権的生存権がおくれているというか・・・。) そういう中で新しいタイプの仕事場が必要だと考えたわけです。 5)、本来、人類の発生史からしても、「労働」こそがまさに「人間発達の源泉」でした。労働こそが社会的富を生み出すだけでなく、その主体=人間そのものの発達を保障してきたと言えます。 しかし、今日では「労働の産物」から疎外されるだけ出なく、 命までも疎外される、労働が人を殺す(過労死)時代になって来ています。 そうした時代にあり、障害を持つ仲間たちの、働き社会参加を目指すなかでのたくましい成長は、人間にとって働くことの意味を改めて問うことになるでしょう。 人間らしく生きて働く(このすこぶる今日的なテーマ!)。 より自由に、より個性的に個々人が全面発達への取り組みを展開するという、ささやかな実践の試みが私たちの目指すところとなるでしょう。 6)、「障害」は、人類の発生と進化の過程では「類的必然」と言えます。 誰一人として障害者とならないという保証はないのであり、決して個々の問題ではなく社会問題そのものです。 そういう点で私は、こういう仕事は「公的責任(特に財政面と住民(主体)参加』が基本」と考えます。しかし、それを待つだけでは道は拓けません。 まずは要求を自覚したものが手を取り合って運動をする・・・と、関係者の皆さんとこうした取り組みを始めたわけです。 7)、幸い私も努力の甲斐あって、公募展への入選入賞を重ね、ある程度の焼き物を商品として焼けるところまで来ました。 仲間が「自分の好きなこの仕事」とやりがいを感じ、一定の収入(年金とあわせれば何とか独り立ちできる、5万ぐらい)を得られるような陶芸窯を、五人ほどの障害を持つ仲間たちと開設しようとしているところです。 8)、今日、勤労者の生活は大変だし、こうして募金のお願いをするのは心苦しいですが、私も妻と3人の娘たち(4人目イン ザ ポンポン)に支えられ、40歳を前にざ全力を尽くす決意をしているところです。 当面月給も10万無いですが、「男が生きてやる仕事として不足はない!」(女はダメということじゃないよ)と考えています。 先ずはその心意気を高く買っていただき、募金にご協力よろしくお願いします。 最後に、皆さんのご健勝とご多幸を祈りつつ・・・。 1992年3月
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二人の学生の14日間にわたる実習が終わりました。
最初は大変不安がっていた学生でしたが、日を重ねるごとに、確信を深めていってくれたようです。 最後は、すがすがしい表情でした。 特に、続く実習生は、 ぜひ、ご参考に。 ふたr
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★ご案内です。 お時間ございましたら、ぜひ、お越しください? 与党は15,6日の採決強行をもくろみ、戦争法案の行方は風雲急を告げています。たとえ強行成立させようとも、違憲立法は施行させず廃止にもっていかなければなりません。 そのためにも、ぜひ一緒に考える機会にしたいと思います。 久々の懇親会も、木下さんを囲んで一杯楽しみませんか? 一品持ち寄り大歓迎! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「戦後70年、戦争と障害者」 ~~木下悟さん(西日本新聞編集委員)を迎えて~~ 主催陶友応援団「ゆうゆう」 日時: 9月19日16;00~講演 17:30~懇親会 場所:陶友(地図→https://www.google.co.jp/…/data=!4m2!3m1!1s0x354193b52c7a3b…) 私たちも、あらためて戦争と障害者の歴史などを学びました。学童疎開から取り残された障害児、お国のために兵隊にもなれない障害者は「役立たずの厄介者」「穀つぶしの非国民」として差別され、人権を侵害されてきました。ナチスでは、600万人にも及ぶユダヤ人虐殺の前に、リハーサル的に20万人もの障害者がガス室に送り込まれたことが最近明らかにされました。 今回、戦争当時を知る人たちを九州各地で取材された木下さんにお話を伺い、皆さんで考えたいと思います。 60年安保の時、岸信介首相は「声なき声を聞く、声を上げてない人たちは賛成だ」と、安保を強行した。「もっとも悲劇的なのは、悪人たちの辛辣な言葉や暴力ではなく、善人たちの恐ろしいまでの沈黙と無関心である」(キング牧師) 黙っていることは「黙認」。 「戦争は最大の人権侵害」「福祉と戦争は両立しない」「戦争はイヤだ!」…、私たちも仲間たちとともに声を上げています。 参考:木下さんがかかわった講演関連の取材 記事→戦後70年へ-証言をつなぐ- vol8 http://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2015/vol08/ ぜひご参加ください。 |
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歴史に学び、今を考える・・・・
「戦争中、高齢者や障害者が「役立たず」、「足手まとい」と蔑まれ、存在自体を疎んじられたことを聞きました。 終戦後、多くの「戦争孤児」が飢えと寒さに殺され、生き残った子どもたちも、食べて生きるための辛酸で過酷な「戦争」を強いられたことも聞きました。まさに戦争こそ、国家による国民への最悪の非福祉行為です。 だから私たちは、日本の政治が軍備拡張に向かい、社会保障予算が削られ、国民の生存権が脅かされる場面に遭遇するたびに、一貫して「大砲よりバターを!」、「軍事費より社会福祉予算を!」をスローガンにした運動を続けてきました。 私たちはまた、あの戦争において、社会事業が「戦時厚生事業」と名付けられ、「銃後の支え」の一つに組み込まれ、人の命を奪う戦争遂行に加担させられたことを知っています。侵略地満州へ送り出す「満蒙開拓団」の組織と訓練を当時の社会事業団体が担わされたことも知っています。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私も賛同しました。 戦争法案に反対する 全国福祉保育労働組合OB役員・組合員有志のアピールです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平和こそ、国民が主人公の社会福祉の礎 私たちは戦争への道を開く「安全保障関連法案」に反対し、撤回・廃案求めます 日本国憲法前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」すると謳い、第9条で国際紛争を解決する手段としての戦争は、「永久にこれを放棄する」と定めています。歴代の自民党政権も、この「平和的生存権」と言われる理念にそって、「集団的自衛権の行使は憲法違反」という解釈を保持し、他国の戦争に参加、加担しない平和国家の立場を貫いてきました。 ところが今、安倍政権は、これらの国是を覆す専断、専横の憲法解釈を持ち込んで「集団的自衛権」を容認し、安全保障関連法案によって再び日本が「戦争する国」、「戦争に参加する国」となる道を開こうとしています。 その道は、人間の生命と尊厳を守り、暮らしを豊かにする社会保障・社会福祉の拡充とは真逆の道であり、絶対に許すことはできません。 私たちは、福祉労働者の社会的地位の向上と社会福祉利用者の生活と権利を守る運動に関わる中で、平和な社会こそが「国民が主人公の社会福祉」を築く礎であることを学んできました。 戦争中、高齢者や障害者が「役立たず」、「足手まとい」と蔑まれ、存在自体を疎んじられたことを聞きました。終戦後、多くの「戦争孤児」が飢えと寒さに殺され、生き残った子どもたちも、食べて生きるための辛酸で過酷な「戦争」を強いられたことも聞きました。まさに戦争こそ、国家による国民への最悪の非福祉行為です。 だから私たちは、日本の政治が軍備拡張に向かい、社会保障予算が削られ、国民の生存権が脅かされる場面に遭遇するたびに、一貫して「大砲よりバターを!」、「軍事費より社会福祉予算を!」をスローガンにした運動を続けてきました。 私たちはまた、あの戦争において、社会事業が「戦時厚生事業」と名付けられ、「銃後の支え」の一つに組み込まれ、人の命を奪う戦争遂行に加担させられたことを知っています。侵略地満州へ送り出す「満蒙開拓団」の組織と訓練を当時の社会事業団体が担わされたことも知っています。 だから私たちには、憲法25条が掲げる「生存権保障」をないがしろにする保育や介護、障害者福祉に対する公的責任の縮小、自己責任と相互扶助的な仕組みの拡大、社会福祉法人への新たな「社会的貢献」の義務付けなどが、戦争法案と軌を一にして、社会福祉の本旨を歪め、変質を図ろうとする動きに思えてなりません。 70回目の終戦記念日-引用と間接表現で『侵略』、『植民地支配』、『反省』、『お詫び』の文言をちりばめた安倍首相の「談話」を、「天声人語」は「巧みに厚化粧した戦後70年の首相談話」と評しました。 私たちは、「戦争を未然に防ぐためのものだ」などの主張に惑わされることなく、かつて福祉労働運動を共に取り組んだみなさんをはじめ、いま社会福祉に働く方々、社会福祉事業を営む方々、社会福祉を利用する方々など、全ての福祉関係者に心から呼びかけます。 いかなる形でも殺し、殺される戦争はいらない! 戦争に引き摺られ、福祉が福祉でなくなった痛恨の歴史を決して繰り返させない! 私たち福祉関係者の声をもっと大きく広げ、国民的な運動と連帯して、戦争につながる安全保障関連法案=戦争法案の撤回・廃案を勝ち取りましょう。 2015年8月17日 戦争法案に反対する 全国福祉保育労働組合OB役員・組合員有志 |
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職員、実習生は必読ですね。
■社会福祉系学会会長共同声明 (8月10日掲載版) http://www.jaass.jp/archives/831 このたび、「戦後70年目の8月15日によせて」と題して社会福祉系学会会長共同声明を出しました。下記に全文を掲載いたします。 ======================================================== 社会福祉系学会会長共同声明「戦後70年目の8月15日によせて」 日本社会福祉学会会長 岩田正美 日本医療社会福祉学会会長 岡本民夫 社会事業史学会会長 大友昌子 日本ソーシャルワーク学会会長 川廷宗之 日本看護福祉学会会長 岡崎美智子 日本仏教社会福祉学会代表理事 長谷川匡俊 日本福祉教育・ボランティア学習学会会長 松岡広路 貧困研究会代表 布川日佐史 1 戦後70年の節目にあたる本年、自衛隊法、PKO協力法、周辺事態法、船舶検査活動法、特定公共施設利用法、国家安全保障会議設置法、武力攻撃事態法、米軍行動関連措置法、海上輸送規制法、捕虜取扱い法の10の法律改正をその内容とする「平和安全法制整備法案」および新たな「国際平和支援法案」の審議が進められている。これらはすでに昨年の集団的自衛権についての閣議決定に沿ったものであるが、従来の自国防衛から、「存立危機事態」へも対応でき、外国軍の後方支援も可能な「積極的防衛」への経路が、国民の安全や他国からの脅威を理由に広げられつつあるといえる。湾岸戦争時に「カネは出すが血は流さない」と国際社会から非難されたともいわれたが、今回の法案は「血を流す貢献」を可能にする環境を整えるものと考えられよう。だがこうした「積極的貢献」が、ある国をめぐる脅威の抑止力になりえるかどうかは、世界の各地で、今日も続けられてきている戦争の実態から、冷静な判断が必要である。 これらの法案が現行憲法に反し、法治主義をゆがめることについては、憲法学者を中心とした批判がある。ここでは社会福祉学の立場から次のような危惧を表明したい。 1.どのような正義の名の下においても、いったん始められた軍事活動は、それが「後方」支援であろうと、同盟国への支援であろうと、そこに巻き込まれた国々の人びとの命と日常生活を一瞬にして奪い、孤児や傷病・障害者を増やすだけでなく、それらの深い傷跡が、人びとの生活に長い影響を与え、しばしば世代を超えて受け継がれていく実態がある。 2.子ども、障害者・病者など「血を流す貢献」ができない人びとが、こうした事態の中で最も弱い立場に追いやられる。また民族や性別、階層の分断や排除が強められ、テロ等の温床にもなる悪循環が作られていく。 3.これらから生ずる「犠牲者」への援護施策とそのための財政その他の社会的コストは一時的なものではなく長期に要請されることに特に留意したい。戦後70年経ってなお、戦争犠牲者への援護行政が続けられ、またそれを巡ってアジアの諸国との対立が続いていることがその一端を示している。 4.財政再建を理由に社会保障・社会福祉費の削減が続いている今日、もし「積極的貢献」の負担増がこれに優先するようになれば、少子高齢化が深まる日本の社会福祉の未来は、更に暗いものとなろう。 2 他方で、日本社会福祉学会『社会福祉学研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(2004)所収の論文「戦後社会福祉の総括」において、著者阿部志郎氏は、戦後社会福祉が「戦時の「万民翼賛体制」のもとでの厚生事業との断絶があり、国家主義の否定の上に、戦後の民主的な社会福祉が到来したと認識しがちである」とし、自らも含めて日本の社会福祉が戦争責任を自覚してこなかったし、「アジアの国々はもちろん、沖縄さえ視野におさめていなかった」ことを深く恥じていると率直に告白されている(p7~8)。その点が、ボランティア運動でさえ「罪責感」を基礎に再出発した戦後ドイツの社会福祉との「決定的相違」だとも強調されている(p8)。私たちは、この阿部氏の告白をあらためて真摯に受け止める必要がある。社会福祉は、一方で一人ひとりの生活に寄り添いながら、同時に「多数の正義」の名の下での支配体制に容易に組み込まれる危険を孕んでいる。このことに社会福祉研究者は常に自覚的でありたい。 3 日本社会福祉関連の各学会は、90年代より国際交流を活発化させ、特に東アジア3カ国ネットワークの実現に向けて努力してきた。また留学生への支援も強化しようとしている。こうした交流の中で、社会福祉の今日的課題の共通性とともに、文化・歴史的背景の違いについての理解も深められている。「戸締まり」に気を配るだけでなく、国を超えた共同研究や実践交流の積み重ねの中で、相互理解を深めていくプロセスをむしろ大事にしたい。残念ながら、最近の政治的「緊張」が、こうした地道な相互理解の努力に水をさすことがある。しかし、回り道のようでも、緊張を回避していく別の回路を模索することが、学会や研究者の役割であり、国際的な社会福祉研究の水準を高める上でも意味があると考える。 戦後70年目の8月15日を迎えるにあたって、社会福祉研究者・実践者として私たちは、「血」ではなく「智」による、「抑止力」ではなく「協力」による未来社会を展望する努力を続けることを誓い合いたい。 |
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