何ともいやなタイトルですが・・・。
しかし、こういう発言を許すことはできません。 「障害児は金がかかるから堕ろしたほうがいい」発言は、ホロコーストのリハーサルとして20万人にも及ぶ障害者を抹殺したナチス社会に通じるものがありますね。 ここにはFBにアップしたいくつかの投稿を紹介しますが、考えてほしいのは「人間とは何か」、「人間の未来社会はどうあるべきか」ということ。 もちろん、障害者問題が人類の問題のすべてではないことは言うまでもありませんが、 障害のある人たちとともに生きる社会は、人類社会の一つの未来像の象徴ではないでしょうか? 参考:人間らしさとは何か?を考えるために書いた2008年のブログ記事です。 あとで、合わせて読んでみてください。 ■NO.258 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(1) ■NO.259 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(2) ■NO.260 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(3) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 許せん!とは言ったものの・・・ この問題は、デリケートで難しい。 「どんな命も、その尊厳において平等だ!」 それはもちろんその通り。言葉では、誰でもいえる。 障害のある人たちにかかわる仕事を30数年、障害のある娘の父親としても20数年・・・、 お腹の子が障害を持ってるとわかったとき、産むのか産まないのか・・・、 産む人は励まし支えたい、・・・だけど産まないと決めた人を責める気持ちにはなれない。 だけどこれだけは言いたい。 行政や「公」が、ああしろこうしろと、ましてや、親や社会が大変だろうとまことしやかに言って、産むべきでないということだけは許せない。 ナチスの時代、社会ダーウィニズム=優生思想とファシズムが結合した時に、障害のある人たちが20万人も、ナチスの兵士によってではなく、まさに医療関係者の「自主的」な行為で虐殺された。 「彼らを生かすために、どれだけ金がかかっているのか!その金をドイツ国民のために使ったらどれだけの人が家を持てるか、・・・ができるのか」・・・そういうプロパガンダの下で。国民はそれを黙認した。 今日のこういう問題も、人間の価値を社会経済的な尺度だけで、効率的か、役に立つかという唯一の価値基準に置くところから出発している。 だから、産むべきか産まざるべきかという議論になる。 この価値を超えた地平に生きる人間の未来はどうしたら出来るんやろ? こういう世界をこそ作りたいと思う。 そうすれば、こういうことで悩む母もいなくなるし、許しがたい「クソババア」もいなくなるのである。 この議論が問うているのは、「クソババア」が許せるかどうかをはるかに超えた、人間の未来なのだ・・・、そう思う。
★「障害者権利条約に恥をかかせないで!」 ちょっと口が悪くて済みませんが、 しんぶんの記事も読んでみてください。
★戦争と福祉は両立しない! 乙武さん、よくぞここまで言ってくれました! 「障害児は金がかかるから堕ろしたほうがいい」発言は、ホロコーストのリハーサルとして20万人にも及ぶ障害者を抹殺したナチス社会に通じるものがありますね。 アベ政権の「戦争する国つくり」は、人権蹂躙とともに・・・。 以下、リンク先最後段より(全文お勧めします)。 「今回に限らず、社会的に許されない暴言を平気で行う人間が、表舞台で跳梁跋扈する傾向が強まっています。戦前回帰願望が強い時代錯誤団体:日本会議が安倍政権の中枢を牛耳っていることとも大いに関係があるでしょう。今回の「障がい者抹殺発言」は決して特殊な事例ではなく、日本社会の劣化を象徴していると思います。」
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