実習生のみなさんも、未読の職員もぜひ読んでください。
NO.90 なぜ「陶芸」だったのか・・・・陶友の歴史2 陶友の歴史・・・・2 なぜ「陶芸」だったのか。 答えは簡単。陶芸を必要とする仲間がいたということ。 Y君は、自閉症と軽度の知的障害だった。5年間付き合った。 こだわりの強さは、相当なもので、自分が気に入ったものはとことんこだわる。 一つの音楽が気になると、運動会の練習の場所に行き「レコードください」と粘ったり、歯医者の機械が気になると、病院に行ってずーっと見て、困らせる。 極めつけは、葬式が気になり、よその葬式に参列し涙を流し・・・香典泥棒に間違われて警察に通報される・・・。 そのこだわりによる問題行動は上げればキリがない。 気に入らないものは全く見向きもしなかった。 作業にならなかった。毎日毎日追いかけっこだった。 何がきっかけか全く分からなかったが、とにかくある日突然,粘土に興味を持った。 元来器用だったので、めきめき上達した。当時の施設の稼ぎ頭だった。 生き生きしていた。 ところが、当時は施設も少なく、いつまでもそこにいることは出来なかった。 出来るだけ多くの人に利用してもらうためということで、その施設の内規で、1人の利用は5年に限られていた。 かくて5年が経過し、Y君は施設を退所する事となった。 例に漏れず、母親は必死になって次の行き場所を探した。しかし、どこも彼に合う所がなく在宅となった。 在宅で楽しみややりがいを失った彼は、精神的に不安定になった。 安定剤を服用する。薬で顔もむくみ別人のようになっていた。 数ヵ月後、お母さんからの相談で話を聞いた。 近くにデイサービスの施設が出来、そこに週1回の陶芸教室があり、通うようになったとの事。そんなある日、バス停に迎えに言ったお母さんのその鼻の前に両手をかざした彼は「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と、ピョンピョン飛び跳ねて喜んだという。 「やっぱり粘土が1番好きなんですねぇ。」とお母さん。 Y君のその姿を思い浮かべ、お母さんの嬉しそうな顔を見て、想いがグーっと前に進んだ。 陶芸をやる作業所が必要だ。作ろうと。 誰だって、俺はこれが一番好きだというものがある。 普通、多くの人は、1番じゃなくとも2番目のことでも何とか我慢し妥協し、適応していく。 そういう力がある。 しかし彼の自閉症はそういう選択肢を閉ざしてしまっていた。 そのことで逆に、私に「1番好きなことして働きたいんだ、生きたいんだ」という強いメッセージを送った。 「こだわりが強く、適応力がない」彼が、実は生きるうえで大切なものを教えてくれたのだ。 「妥協せず自分の好きなことを大事に、自分らしく生きて行きたい。」と。 施設の都合や社会の制約や、自分の意志以外の力で自分の人生が決められていく。 私はそんな生き方はとても受け入れられない。 うまく言葉で表現できない彼が、再びであった粘土こねの喜びを「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と飛び跳ねて表現した。 この喜びは、みんなの喜びにつながるもの。 職場をやめ、ゼロから作業所つくりに取り掛かろうと決意するに十分な出来事だった。 苦労するに値する価値がある。 こうして、ただ一般的に、行き場のない障害を持つ仲間たちの作業所を作るというのではなく、自分達が好きでやりたい陶芸の作業所を・・・。こうして、まだ見えぬ作業所の方向が決まったのだった。 私自身も、我流ながら陶芸の修行をして、そこそこのものになっていた。 当時の数年間は、一通りの陶芸展で、入選入賞を重ね、ちょうど市美術展で市長賞をとった頃で、そういう面でも準備は整いつつあった。 どこまでやれるか、不安はなかった。 行くべき道をつかんだことが嬉しかった。 NO.93 心に届いて欲しい・・・・陶友の歴史(4) 資金作りのため募金について書きます。ちょっと長いですが、ぜひ読んで欲しいです。 「呼びかけ」はB4版にいっぱいに心をこめた楷書体だった。初心に帰るためにも、ここに再掲する。もちろん手書きしか出来なかった。 先輩や友人、知人の皆さんへ。 めぐり来る春の息吹が感じられるこのごろです。皆さん、元気でご活躍のこととおもいます。 さて、私は、このたび、別紙の通り障害者の新しい仕事場を作る準備にとりかかりました。 つきましては、皆さんの応援をいただきたく、こうしてお願いすることにしました。よろしくお願いします。 1)、私は大学卒業後13年間、民間の障害者施設で働いてきました。 知恵遅れの(まま)青年・成人期障害者が、家から通いながら作業に取り組み、生活と仕事の訓練をする施設と考えていいです。 陶芸班の担当指導員をしながら、誠実に真面目に仕事をしてきたと、ひそかに自負しているところです。 2)、仲間たちと仕事をする中で、 「労働」を通じてコトバや自己表現が豊かになったり、様々な社会性を身につけていく姿に学びながら、 「みんなといっしょに働き、社会に参加すること」=「労働」こそが、青年・成人期障害者の成長と発達の源泉であると言う確信を、改めて強くしています。 1人の青年がいました。軽度の知的障害と自閉症の人です。 彼は陶芸が好きで、これをすることにより、心が非常に安定してきました。 しかし、施設での訓練期間を終え卒園しましたが、自分にに合う場がなく在宅となり、また心が不安定になり、安定剤の服用で顔つきまで変わっていったのです。 そのことをもきっかけにしながら私は、障害者の社会参加についてもっと深く考えるようになっていきました。 3)、私自身は、より自分らしく生きて働くことにこだわり、職業も選び様々な社会的な活動にも参加してきました。 しかし彼らにはまだごく限られた道しか準備されておらず、それに適応できなければ、自立も参加の条件も極めて狭められていると言うのが今日の実態です。 4)生産が高まれば、多様な価値が生み出され、人間の価値観も個性も多様化してきます。 より豊かでより自由な個々人の発達と成長のためには、障害者にこそその障害に合った多様な選択肢が準備されなくてはなりません。 今日の障害者福祉は、与える側からの一定の制度は作られていますが、利用者、まさに権利主体の要求に沿った取り組みは、まだまだ遅れています。(自由権的生存権がおくれているというか・・・。) そういう中で新しいタイプの仕事場が必要だと考えたわけです。 5)、本来、人類の発生史からしても、「労働」こそがまさに「人間発達の源泉」でした。労働こそが社会的富を生み出すだけでなく、その主体=人間そのものの発達を保障してきたと言えます。 しかし、今日では「労働の産物」から疎外されるだけ出なく、 命までも疎外される、労働が人を殺す(過労死)時代になって来ています。 そうした時代にあり、障害を持つ仲間たちの、働き社会参加を目指すなかでのたくましい成長は、人間にとって働くことの意味を改めて問うことになるでしょう。 人間らしく生きて働く(このすこぶる今日的なテーマ!)。 より自由に、より個性的に個々人が全面発達への取り組みを展開するという、ささやかな実践の試みが私たちの目指すところとなるでしょう。 6)、「障害」は、人類の発生と進化の過程では「類的必然」と言えます。 誰一人として障害者とならないという保証はないのであり、決して個々の問題ではなく社会問題そのものです。 そういう点で私は、こういう仕事は「公的責任(特に財政面と住民(主体)参加』が基本」と考えます。しかし、それを待つだけでは道は拓けません。 まずは要求を自覚したものが手を取り合って運動をする・・・と、関係者の皆さんとこうした取り組みを始めたわけです。 7)、幸い私も努力の甲斐あって、公募展への入選入賞を重ね、ある程度の焼き物を商品として焼けるところまで来ました。 仲間が「自分の好きなこの仕事」とやりがいを感じ、一定の収入(年金とあわせれば何とか独り立ちできる、5万ぐらい)を得られるような陶芸窯を、五人ほどの障害を持つ仲間たちと開設しようとしているところです。 8)、今日、勤労者の生活は大変だし、こうして募金のお願いをするのは心苦しいですが、私も妻と3人の娘たち(4人目イン ザ ポンポン)に支えられ、40歳を前にざ全力を尽くす決意をしているところです。 当面月給も10万無いですが、「男が生きてやる仕事として不足はない!」(女はダメということじゃないよ)と考えています。 先ずはその心意気を高く買っていただき、募金にご協力よろしくお願いします。 最後に、皆さんのご健勝とご多幸を祈りつつ・・・。 1992年3月
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二人の学生の14日間にわたる実習が終わりました。
最初は大変不安がっていた学生でしたが、日を重ねるごとに、確信を深めていってくれたようです。 最後は、すがすがしい表情でした。 特に、続く実習生は、 ぜひ、ご参考に。 ふたr
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