何ともいやなタイトルですが・・・。
しかし、こういう発言を許すことはできません。 「障害児は金がかかるから堕ろしたほうがいい」発言は、ホロコーストのリハーサルとして20万人にも及ぶ障害者を抹殺したナチス社会に通じるものがありますね。 ここにはFBにアップしたいくつかの投稿を紹介しますが、考えてほしいのは「人間とは何か」、「人間の未来社会はどうあるべきか」ということ。 もちろん、障害者問題が人類の問題のすべてではないことは言うまでもありませんが、 障害のある人たちとともに生きる社会は、人類社会の一つの未来像の象徴ではないでしょうか? 参考:人間らしさとは何か?を考えるために書いた2008年のブログ記事です。 あとで、合わせて読んでみてください。 ■NO.258 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(1) ■NO.259 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(2) ■NO.260 重い障害者と生きた初めての人々。・・・人間らしさについて考える。(3) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 許せん!とは言ったものの・・・ この問題は、デリケートで難しい。 「どんな命も、その尊厳において平等だ!」 それはもちろんその通り。言葉では、誰でもいえる。 障害のある人たちにかかわる仕事を30数年、障害のある娘の父親としても20数年・・・、 お腹の子が障害を持ってるとわかったとき、産むのか産まないのか・・・、 産む人は励まし支えたい、・・・だけど産まないと決めた人を責める気持ちにはなれない。 だけどこれだけは言いたい。 行政や「公」が、ああしろこうしろと、ましてや、親や社会が大変だろうとまことしやかに言って、産むべきでないということだけは許せない。 ナチスの時代、社会ダーウィニズム=優生思想とファシズムが結合した時に、障害のある人たちが20万人も、ナチスの兵士によってではなく、まさに医療関係者の「自主的」な行為で虐殺された。 「彼らを生かすために、どれだけ金がかかっているのか!その金をドイツ国民のために使ったらどれだけの人が家を持てるか、・・・ができるのか」・・・そういうプロパガンダの下で。国民はそれを黙認した。 今日のこういう問題も、人間の価値を社会経済的な尺度だけで、効率的か、役に立つかという唯一の価値基準に置くところから出発している。 だから、産むべきか産まざるべきかという議論になる。 この価値を超えた地平に生きる人間の未来はどうしたら出来るんやろ? こういう世界をこそ作りたいと思う。 そうすれば、こういうことで悩む母もいなくなるし、許しがたい「クソババア」もいなくなるのである。 この議論が問うているのは、「クソババア」が許せるかどうかをはるかに超えた、人間の未来なのだ・・・、そう思う。
★「障害者権利条約に恥をかかせないで!」 ちょっと口が悪くて済みませんが、 しんぶんの記事も読んでみてください。
★戦争と福祉は両立しない! 乙武さん、よくぞここまで言ってくれました! 「障害児は金がかかるから堕ろしたほうがいい」発言は、ホロコーストのリハーサルとして20万人にも及ぶ障害者を抹殺したナチス社会に通じるものがありますね。 アベ政権の「戦争する国つくり」は、人権蹂躙とともに・・・。 以下、リンク先最後段より(全文お勧めします)。 「今回に限らず、社会的に許されない暴言を平気で行う人間が、表舞台で跳梁跋扈する傾向が強まっています。戦前回帰願望が強い時代錯誤団体:日本会議が安倍政権の中枢を牛耳っていることとも大いに関係があるでしょう。今回の「障がい者抹殺発言」は決して特殊な事例ではなく、日本社会の劣化を象徴していると思います。」
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★仲間 「陶友に来ての思い」
(耳が聞こえないフミさんの思いは、多くの人の感動をよびました。…、ぜひ聞いてください 本人の了解を得て動画をアップします。) https://www.facebook.com/tomosan.oowaki/videos/944620042284559/?permPage=1 「仲間」って、障害のある作業所の利用者です。 かつて施設を利用する人たちは「園生」とか呼ばれていました。(いまはメンバーとか呼ばれることが多いようですが・・・) ふみさんの関連記事も参照ください。 ①NO.1362 「みんな幸せになる権利があるんだ!」・・・持病が悪化してしまった。 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-1398.html ② NO.1369 「みんなちがって、みんないい」なんだ。 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-1405.html ③ NO.1918 石焼安納芋”ふみさんの幸せの黄色い蜜芋(安納芋)”が本格始動しました。 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-1968.html ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 彼らは日本の福祉シーンで、「訓練を受ける存在」「教えられる存在」としてとらえられてきたのです。 きょうされん(作業所の全国組織)の中で、彼らと施設の関係はそういう存在でも関係でもない、利用者・支援者という立場の違いはあっても、一人の尊厳ある対等平等な人間同士なんだ。時代を共に生きる仲間なんだという考えから、利用者を「仲間」と呼ぶことにしたのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 食品班の○○です。私が話すのは、偉そうかもしれませんが、他の仲間の想いも一緒に代わりに言うつもりで、陶友に来てこれまでの私の想いを話します。 私は小さいころから、耳が聞こえません。陶友に来る前は、耳が聞こえないことを気にしていました。私が育ったのは田舎で、障害者の学校はありませんでした。遠くにはありましたが、お母さんが「遠くにやるのは、かわいそう」と言って、普通の学校に行くことになりました。でも、学校では先生の言っていることがわからなくて、勉強がほとんどできませんでした。他の子にいじめられたりもしました。 結婚は遅かったです。子どもができました。子どもがいたから、どうにか、がんばってやっていたけど…事故で死んでしまいました。もう地獄に落ちたような感じでした。自分はこの先、幸せはこないと思いました。 そんな時、妹を頼って福岡に来ました。「障害者の施設が近くにあるよ」と言われて、陶友を見に行くことにしましたが、あまり気は進みませんでした。 陶友に来て…玄関を入って最初に見たのが、職員の栗毛野さんの笑顔でした。みんなの雰囲気もすごく良くて、相田さんが一生懸命に話しかけてくれたのが嬉しかった。とにかく雰囲気が良かったです。だから、「行ってみよう」と思いました。 陶友に通い始めて、帰ったらいつも妹が「どうやった?」と聞いてきました。私はその日にあったことを話すのですが、「すごく楽しそうに話すね」「すごくうらやましい」って妹に言われました。妹は「ふみこ姉(ねぇ)は、陶友に出会うために生きてきたんだね」と言いました。親戚や友達には「すごく変わったね。明るくなって、ふっくらした」って言われました。それまでは、ガリガリでした。 自分がこんなに幸せになったのは、陶友と仲間のおかげです。陶友にいたら、ほっとします。空気が違います。 なぜ、こんなに自分は変わったのか…考えてみました。耳が聞こえない私は、普通なら、言ってもわからないから「もういい」って、のけ者扱いにされます。でも、陶友では、私に合わせて、わかるように向き合ってくれます。仲間たちも、書いてくれたり、私にわかるように言ってくれたりします。差別しない。「あの人はこういう人だから…」と責めたりしません。私に「耳が聞こえないから…」と言ったりしません。みんな優しい。それが自然で、私も陶友に溶け込むことが出来ました。職員さんは自分たちの気持ちを大事にしてくれます。一人ひとり、それぞれのことを考えてくれる。だから、安心できる。陶友に来て「人を信じていいんだな」って思えました。 陶友に来て、自分を好きになりました。明るくなって、みんなと楽しくやれるし…それに、梶塚くんが私のことを「小西さん好きよ」って言ってくれます。仲間一人ひとりの気持ちもわかって「私もみんなからちゃんと好かれているんだな」って思えました。それに、大脇さんにいつも「自分なりで良い。人と比べなくて良い。あなたらしく生きたら良い。」って言われました。…前は、聞こえない自分が嫌いで、聞こえる人がうらやましかったけど、今は「耳が聞こえない自分でも、良いかな」って思えるようになりました。 陶友に出会えて良かったです。幸せになったのは、陶友のみんなと、職員さんと、大脇さんのおかげ。だから、陶友のみんなのためにできることをやりたい。たまにケンカしたり、ついカッとすることもあるけど…でも、みんなのことが好きです。みんなもきっとそうだと思います。 私は、本当に幸せです。安心できます。一人暮らしをしていますが、全然さみしいと思いません。毎日が楽しいです。 大脇さんに出会えたおかげです。お酒を飲んだ時に、「絶対にフミさんを幸せにする」って言われて、それがすごく幸せでした。こんなに幸せでいいのかなって思うぐらいでした。大脇さんには、私たち仲間の大切な人だから健康に気を付けて、元気で長生きしてもらいたいです。「お酒を飲むのが一番の楽しみだから、飲んで良いけど、体を壊さないようにしてくださいね。」 今、やりたいことは、仲間のみんなのために仕事がしたいと思っています。「給料をあげたい」というみんなの気持ちを叶えるために、新商品づくりをしたり、いい仕事ができるようにしたいです。なかなか思うようにいかないけど、頑張りたいです。 こんな風に、陶友で楽しく働いたり、みんなのことを考えたりできるのは「平和」だからこそだと思います。一人ひとりを大切にできるのも平和だからです。絶対に平和でないといけないと思っています。
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必見! 障害のある人たちの問題は、「彼らの問題」ではなく「私たちの問題」なのです。 ■それはホロコーストの“リハーサル”だった ~障害者虐殺70年目の真実~/NHK・ETV特集 http://www.at-douga.com/?p=14883#more-14883 600万人以上のユダヤ人犠牲者を出し、「人類史上、最大の悲劇」として語り継がれてきたナチス・ドイツによるホロコースト。 しかし、ユダヤ人大虐殺の前段に、いわば“リハーサル”として、およそ20万人ものドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされた病人たちがガス室などで殺害されたことについては、表だって語られてこなかった。 終戦から70年もの年月がたった今、ようやく事実に向き合う動きが始まっている。 きっかけの一つは5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、過去に患者の殺害に大きく関わったとして謝罪したこと。 学会は事実究明のために専門家を入れた国際委員会を設置、いかにして医師たちが“自発的に”殺人に関わるようになったのかなどを報告書にまとめ、この秋発表する。 番組では、こうした暗い歴史を背負う現場を、日本の障害者運動をリードしてきた藤井克徳さん(自身は視覚障害)が訪ねる。 ホロコーストの“リハーサル”はどうして起きたのか、そして止めようとする人たちはいなかったのか・・・。 資料や遺族の証言などから、時空を超えていま、問いかけられていることを考える。
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陶友祭 開会あいさつ。
みなさん、こんにちは。 あいにくの空模様の中、陶友祭にお越しいただきありがとうございます。皆さんに支えられて、陶友も23年を迎え、今日は22回目の陶友祭です。陶友祭は、仲間たちの日ごろの働きぶりの成果を披露し、皆さんとの交流を深める場です。同時に、仲間たちの給料を稼ぐ大事な機会ですので、どうか皆さん、予算の許す限りたくさんお買い上げください。労働者庶民から絞り上げ、大企業だけを太らせるアベノノミクスに対抗し、お互いにお腹も心もホンワカ豊かになる陶友祭でありたいと思います。まずは、財布のひもの件、よろしくお願いします。 さて、今年は戦後70年。ご案内のようにテーマを「平和だから・・・笑える、歌える、語り合える」としました。安倍政権は多くの国民の反対の声を無視して、戦後初めて集団的自衛権を認める解釈改憲を行い、「安全保障法制」という名の「戦争法」を強行成立させました。 その中で、私たちは「戦争と障害者の歴史」について学んできました。戦争は、かけがえのない命を奪いたくさんの障害者を作り出してきました。そればかりか、たとえばあの学童疎開。空襲から大事な子どもたちの命を守る政策だったと思っている方もいるかもしれませんが、実は将来の兵隊を確保するのが目的だったのですね。したがって、障害のある子どもたちは学童疎開政策から取り残され、戦火の中に身をさらさなければなりませんでした。 また、あのナチス・ドイツの時代のホロコースト、600万人にも及ぶユダヤ人の大量虐殺は「人類史上、最大の悲劇」としてあまりにも有名ですが、実はこれは最近明らかになったことですが、いわば「リハーサル」としておよそ20万人ものドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされた病人たちがガス室などで殺害されたことについてはあまり知られていません。これは、5年前にドイツ精神医学精神療法神経学会が「過去に患者を殺したことががる」と明らかにし謝罪したことで知られるようになりました。今日、夜11時からNHKETV特集「それはホロコーストの"リハーサル"だった~障害者虐殺70年目の真実~」という番組で放送されるのでぜひご覧ください。 このように洋の東西を問わず、戦争の時代には、戦争に役にたつかどうかという唯一の基準で人間の価値が図られ、障害のある人たちは足手まとい、邪魔者扱いされ、、「穀つぶし」「非国民」として差別され真っ先に人権を奪われたのです。 「戦争と福祉は両立しない」「平和であってこそ一人一人の尊厳は守れるんだ」…これが、私たちが歴史から学んだ結論です。 みなさん、「まさかあんなひどい時代は来ないだろう」と思うかもしれません。しかし、「戦争は最大の人権破壊」というその本質は変わりません。既に戦争する国づくりは進行しています。年金や生活保護、介護、社会保障と福祉を切り捨てながら軍事予算は5兆円を超え戦後最大になろうとしています。 安倍さんは中身も明らかにしないまま「一億層活躍社会」などと打ち上げて悦に入っていますが、「一億」などがついたら「一億総玉砕」「一億総懺悔」などろくなことはありません。憲法が一番大事にしているのは「一億総」同じなどではない、みんなひとくくりではない、一人一人が尊厳を持っているということなんですね。その個人の尊厳を守るために権力の勝手横暴をを許さない、これが憲法なんですね。この憲法を踏みにじる、立憲主義の破壊に、多くの国民が怒り、「戦争法廃止、立憲主義と民主主義をも守ろう」と大きな声を上げ続けています。障害のある仲間たちの未来もこの方向にこそあるのではないでしょうか? ・・・こういう話をしていたらいくら時間があっても足りませんから・・・。 ・・・今日は、仲間たちとそれを取り巻く社会や歴史のことにも想像を働かせていただきながら、平和の尊さ、一人一人がその尊厳にふさわしく自分らしく生きることの大切さを確認し共有できる意義ある楽しい陶友祭にしたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。
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ふみさんが陶友祭で発表するスピーチが、リハーサルで実習生の感動を呼んでいます。
それはなぜでしょうか?どういうことでしょうか? 改めて考えてみたいと思います。 ■「助けて!」といえない人生 関連する4年前の所長のブログです。 貼り付けておきます。 陶友で一番大事なこと。 仕事も大事、社会人として生きることも大事。 でも1番大事なことは、「誰かに“助けて”といえること」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「人間らしく生きたい 10・28生活保護アクションin 日比谷 25条大集会」のアピールは、次のように結んでいます。 「・・・私たちは、無差別平等に生きる憲法と制度を持っている。 貧困に命を奪われないためのしくみはある。 私たちはもっと「助けて」と言っていいし、 私たちはもっと「助けて」と言われていい。 生活保護制度という命の砦を、私たちは守り、 より良いものに作り変えていく義務がある。 誰一人、貧困に殺されない社会。 そんな当たり前のために、私たちは声を上げ続ける。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ NO.2142 「助けて!」といえない人生 人間の生きる力とは一体なんなのでしょうか。 人間らしさとは一体どういうことなのでしょうか。 みのり4143 陶友の職員たなかが、「誰かを頼れる力 」 というエントリーで、具合が悪くても我慢して、言わない仲間のことについて書いています。 ・・・・・・・・・・・以下、引用・・・・・・・・・・・・・・・・ (たなか)『ふみさんちょっといい?具合が悪いんですか?』 (ふみさん)「・・・うん、ちょっとね。でも大丈夫。」 ニコッと困ったように笑います。 (たなか)『具合が悪かったら、ちゃんと言ってくださいね。』 (ふみさん)「・・・うん。具合が悪いって言ったら帰らないといけないと思って。そんなこと言っちゃいけんとかな・・・と思って」 これは、ふみさんのいつものセリフです。 いつも、どこでも、具合が悪くても我慢してやり過ごし、具合が悪いことは言わないのです。 「迷惑がかかるから」といいます。 そのたび「職員や家族には、具合が悪かったりしたらちゃんと言ってください。誰も迷惑なんて思わないし、言ってくれたほうがいいんですよ。我慢してもっと悪くなったら大変だから。」と話します。 ふみさんはそのたびにニコッと困ったように笑います。 でも、毎回ふみさんは我慢するのです。 陶友で一番大事なこと。 仕事も大事、社会人として生きることも大事。 でも1番大事なことは、「誰かに“助けて”といえること」 人は1人では生きていけません。 互いに支えあって生きていきます。 仲間たちにとっても、それは同じです。 1人でできないことも、誰かと一緒だったらできるようになるかもしれない。 おなかが痛いときはさすってくれたり、見守ってくれる人がいると心強いと思います。 ふみさんは今まで、障害があるがゆえに我慢したことや、言いたいことを言えなかったかもしれません。 苦しくてもグッと堪えたこともあるかもしれません。 でも、つらいときに「助けて。」と誰かに言えたら、少し楽になって、より生きやすくなるかもしれません。 言いたいことや、思いを伝えることは、生きる上で大きな力になると思うのです。 ・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ふみさんは、聴覚障害がありほとんど聞こえません。 離島で育ち手話も習う機会がありませんでした。 縁あって結婚し子どもに恵まれましたが、その娘さんの事故死をきっかけに一人ぼっちになってしまったのです。 (参考過去ログ) ■NO.1362 「みんな幸せになる権利があるんだ!」・・・持病が悪化してしまった。 ■NO.1369 「みんなちがって、みんないい」なんだ。 ■NO.1918 石焼安納芋”ふみさんの幸せの黄色い蜜芋(安納芋)”が本格始動しました。 「助けてといえない世代」が話題になったのはつい数年前。 就職氷河期に正規で職に就けず、派遣やフリーターをしながらついには路上生活にまで落ち込んでいく若者達。 「こんな生活しかできないのは自分のせいだ・・・」 「自己責任」の呪縛にとらわれ、生活保護を申請したり、相談窓口に行くことさえもしない。他人に助けてなんてとても言えない、助けを求めることさえも思いつかない・・・そんな青年達のことがテレビで報告されていました。 ふみさんもまたその障害を背負いながら、助けてと言えない人生を送ってきたのです。 時々腹が立ってしまう。 その「卑屈さ」に! そして、そこまで追い込んでしまった彼女の人生の周辺に、時代に。 「人は1人では生きていけません。 互いに支えあって生きていきます。」 そんなこと当たり前じゃないか! その当たり前が通用しない。 障害者自立支援法は、障害を自己責任として、その費用の一部負担を強引に押し付けてきました。 「人間は一人ではちっぽけで弱い存在だろう。あなたは一人では空を飛ぶことが出来ますか。 しかし、人間は、人類の一員としてなら自由に空も飛べる、地球の裏側まででも月までだって行けるだろ?・・・人間は類としてつながることによって個の限界を超え、限りない発達の可能性を持ってるんだよ。」 実習に来る学生に、オリエンテーションで必ず話すことです。 「それを実践し証明するのが私たちのたちの仕事だ」と。 連帯し絆を結び、その人間らしさを取り戻す・・・。 俺たちの現場、福祉の現場は日々その中にあるんじゃないのかな。 分断と孤立の中で洗脳された「自己責任」。 えらそうなことを言っても、傍らにいるふみさんを未だにその呪縛から解放してあげることが出来ていない。 誰かが「人間は類的存在だ」と言っていたが、現代はますます「類的自覚」を求めているのではないだろうか。 震災後、特に・・・。 追記:こちらも同じような仲間の話・・・ ■NO.2691 困ったことはちゃんと言うてよな!それが「自立」ってことばい。 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-2496.html
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実習生は、参考に、読んでみてください。
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全国から4000人が集った「人間らしく生きたい 10・28生活保護アクションin 日比谷 25条大集会」
「基調報告」と「集会アピール」、「仲間の訴え」も紹介します。 コメント欄に参加者の報告発言動画を紹介しています。 ホームページはこちら→http://25-action.net/index.html まずは呼びかけ人の一言から。 http://25-action.net/yobikake.html こちらから、より深く学びましょう。 25条と生活保護基準→http://25-action.net/article25.html ★基調報告
★集会アピール
★仲間の訴え
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実習生のみなさんも、未読の職員もぜひ読んでください。
NO.90 なぜ「陶芸」だったのか・・・・陶友の歴史2 陶友の歴史・・・・2 なぜ「陶芸」だったのか。 答えは簡単。陶芸を必要とする仲間がいたということ。 Y君は、自閉症と軽度の知的障害だった。5年間付き合った。 こだわりの強さは、相当なもので、自分が気に入ったものはとことんこだわる。 一つの音楽が気になると、運動会の練習の場所に行き「レコードください」と粘ったり、歯医者の機械が気になると、病院に行ってずーっと見て、困らせる。 極めつけは、葬式が気になり、よその葬式に参列し涙を流し・・・香典泥棒に間違われて警察に通報される・・・。 そのこだわりによる問題行動は上げればキリがない。 気に入らないものは全く見向きもしなかった。 作業にならなかった。毎日毎日追いかけっこだった。 何がきっかけか全く分からなかったが、とにかくある日突然,粘土に興味を持った。 元来器用だったので、めきめき上達した。当時の施設の稼ぎ頭だった。 生き生きしていた。 ところが、当時は施設も少なく、いつまでもそこにいることは出来なかった。 出来るだけ多くの人に利用してもらうためということで、その施設の内規で、1人の利用は5年に限られていた。 かくて5年が経過し、Y君は施設を退所する事となった。 例に漏れず、母親は必死になって次の行き場所を探した。しかし、どこも彼に合う所がなく在宅となった。 在宅で楽しみややりがいを失った彼は、精神的に不安定になった。 安定剤を服用する。薬で顔もむくみ別人のようになっていた。 数ヵ月後、お母さんからの相談で話を聞いた。 近くにデイサービスの施設が出来、そこに週1回の陶芸教室があり、通うようになったとの事。そんなある日、バス停に迎えに言ったお母さんのその鼻の前に両手をかざした彼は「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と、ピョンピョン飛び跳ねて喜んだという。 「やっぱり粘土が1番好きなんですねぇ。」とお母さん。 Y君のその姿を思い浮かべ、お母さんの嬉しそうな顔を見て、想いがグーっと前に進んだ。 陶芸をやる作業所が必要だ。作ろうと。 誰だって、俺はこれが一番好きだというものがある。 普通、多くの人は、1番じゃなくとも2番目のことでも何とか我慢し妥協し、適応していく。 そういう力がある。 しかし彼の自閉症はそういう選択肢を閉ざしてしまっていた。 そのことで逆に、私に「1番好きなことして働きたいんだ、生きたいんだ」という強いメッセージを送った。 「こだわりが強く、適応力がない」彼が、実は生きるうえで大切なものを教えてくれたのだ。 「妥協せず自分の好きなことを大事に、自分らしく生きて行きたい。」と。 施設の都合や社会の制約や、自分の意志以外の力で自分の人生が決められていく。 私はそんな生き方はとても受け入れられない。 うまく言葉で表現できない彼が、再びであった粘土こねの喜びを「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と飛び跳ねて表現した。 この喜びは、みんなの喜びにつながるもの。 職場をやめ、ゼロから作業所つくりに取り掛かろうと決意するに十分な出来事だった。 苦労するに値する価値がある。 こうして、ただ一般的に、行き場のない障害を持つ仲間たちの作業所を作るというのではなく、自分達が好きでやりたい陶芸の作業所を・・・。こうして、まだ見えぬ作業所の方向が決まったのだった。 私自身も、我流ながら陶芸の修行をして、そこそこのものになっていた。 当時の数年間は、一通りの陶芸展で、入選入賞を重ね、ちょうど市美術展で市長賞をとった頃で、そういう面でも準備は整いつつあった。 どこまでやれるか、不安はなかった。 行くべき道をつかんだことが嬉しかった。 NO.93 心に届いて欲しい・・・・陶友の歴史(4) 資金作りのため募金について書きます。ちょっと長いですが、ぜひ読んで欲しいです。 「呼びかけ」はB4版にいっぱいに心をこめた楷書体だった。初心に帰るためにも、ここに再掲する。もちろん手書きしか出来なかった。 先輩や友人、知人の皆さんへ。 めぐり来る春の息吹が感じられるこのごろです。皆さん、元気でご活躍のこととおもいます。 さて、私は、このたび、別紙の通り障害者の新しい仕事場を作る準備にとりかかりました。 つきましては、皆さんの応援をいただきたく、こうしてお願いすることにしました。よろしくお願いします。 1)、私は大学卒業後13年間、民間の障害者施設で働いてきました。 知恵遅れの(まま)青年・成人期障害者が、家から通いながら作業に取り組み、生活と仕事の訓練をする施設と考えていいです。 陶芸班の担当指導員をしながら、誠実に真面目に仕事をしてきたと、ひそかに自負しているところです。 2)、仲間たちと仕事をする中で、 「労働」を通じてコトバや自己表現が豊かになったり、様々な社会性を身につけていく姿に学びながら、 「みんなといっしょに働き、社会に参加すること」=「労働」こそが、青年・成人期障害者の成長と発達の源泉であると言う確信を、改めて強くしています。 1人の青年がいました。軽度の知的障害と自閉症の人です。 彼は陶芸が好きで、これをすることにより、心が非常に安定してきました。 しかし、施設での訓練期間を終え卒園しましたが、自分にに合う場がなく在宅となり、また心が不安定になり、安定剤の服用で顔つきまで変わっていったのです。 そのことをもきっかけにしながら私は、障害者の社会参加についてもっと深く考えるようになっていきました。 3)、私自身は、より自分らしく生きて働くことにこだわり、職業も選び様々な社会的な活動にも参加してきました。 しかし彼らにはまだごく限られた道しか準備されておらず、それに適応できなければ、自立も参加の条件も極めて狭められていると言うのが今日の実態です。 4)生産が高まれば、多様な価値が生み出され、人間の価値観も個性も多様化してきます。 より豊かでより自由な個々人の発達と成長のためには、障害者にこそその障害に合った多様な選択肢が準備されなくてはなりません。 今日の障害者福祉は、与える側からの一定の制度は作られていますが、利用者、まさに権利主体の要求に沿った取り組みは、まだまだ遅れています。(自由権的生存権がおくれているというか・・・。) そういう中で新しいタイプの仕事場が必要だと考えたわけです。 5)、本来、人類の発生史からしても、「労働」こそがまさに「人間発達の源泉」でした。労働こそが社会的富を生み出すだけでなく、その主体=人間そのものの発達を保障してきたと言えます。 しかし、今日では「労働の産物」から疎外されるだけ出なく、 命までも疎外される、労働が人を殺す(過労死)時代になって来ています。 そうした時代にあり、障害を持つ仲間たちの、働き社会参加を目指すなかでのたくましい成長は、人間にとって働くことの意味を改めて問うことになるでしょう。 人間らしく生きて働く(このすこぶる今日的なテーマ!)。 より自由に、より個性的に個々人が全面発達への取り組みを展開するという、ささやかな実践の試みが私たちの目指すところとなるでしょう。 6)、「障害」は、人類の発生と進化の過程では「類的必然」と言えます。 誰一人として障害者とならないという保証はないのであり、決して個々の問題ではなく社会問題そのものです。 そういう点で私は、こういう仕事は「公的責任(特に財政面と住民(主体)参加』が基本」と考えます。しかし、それを待つだけでは道は拓けません。 まずは要求を自覚したものが手を取り合って運動をする・・・と、関係者の皆さんとこうした取り組みを始めたわけです。 7)、幸い私も努力の甲斐あって、公募展への入選入賞を重ね、ある程度の焼き物を商品として焼けるところまで来ました。 仲間が「自分の好きなこの仕事」とやりがいを感じ、一定の収入(年金とあわせれば何とか独り立ちできる、5万ぐらい)を得られるような陶芸窯を、五人ほどの障害を持つ仲間たちと開設しようとしているところです。 8)、今日、勤労者の生活は大変だし、こうして募金のお願いをするのは心苦しいですが、私も妻と3人の娘たち(4人目イン ザ ポンポン)に支えられ、40歳を前にざ全力を尽くす決意をしているところです。 当面月給も10万無いですが、「男が生きてやる仕事として不足はない!」(女はダメということじゃないよ)と考えています。 先ずはその心意気を高く買っていただき、募金にご協力よろしくお願いします。 最後に、皆さんのご健勝とご多幸を祈りつつ・・・。 1992年3月
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二人の学生の14日間にわたる実習が終わりました。
最初は大変不安がっていた学生でしたが、日を重ねるごとに、確信を深めていってくれたようです。 最後は、すがすがしい表情でした。 特に、続く実習生は、 ぜひ、ご参考に。 ふたr
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職員、実習生は必読ですね。
■社会福祉系学会会長共同声明 (8月10日掲載版) http://www.jaass.jp/archives/831 このたび、「戦後70年目の8月15日によせて」と題して社会福祉系学会会長共同声明を出しました。下記に全文を掲載いたします。 ======================================================== 社会福祉系学会会長共同声明「戦後70年目の8月15日によせて」 日本社会福祉学会会長 岩田正美 日本医療社会福祉学会会長 岡本民夫 社会事業史学会会長 大友昌子 日本ソーシャルワーク学会会長 川廷宗之 日本看護福祉学会会長 岡崎美智子 日本仏教社会福祉学会代表理事 長谷川匡俊 日本福祉教育・ボランティア学習学会会長 松岡広路 貧困研究会代表 布川日佐史 1 戦後70年の節目にあたる本年、自衛隊法、PKO協力法、周辺事態法、船舶検査活動法、特定公共施設利用法、国家安全保障会議設置法、武力攻撃事態法、米軍行動関連措置法、海上輸送規制法、捕虜取扱い法の10の法律改正をその内容とする「平和安全法制整備法案」および新たな「国際平和支援法案」の審議が進められている。これらはすでに昨年の集団的自衛権についての閣議決定に沿ったものであるが、従来の自国防衛から、「存立危機事態」へも対応でき、外国軍の後方支援も可能な「積極的防衛」への経路が、国民の安全や他国からの脅威を理由に広げられつつあるといえる。湾岸戦争時に「カネは出すが血は流さない」と国際社会から非難されたともいわれたが、今回の法案は「血を流す貢献」を可能にする環境を整えるものと考えられよう。だがこうした「積極的貢献」が、ある国をめぐる脅威の抑止力になりえるかどうかは、世界の各地で、今日も続けられてきている戦争の実態から、冷静な判断が必要である。 これらの法案が現行憲法に反し、法治主義をゆがめることについては、憲法学者を中心とした批判がある。ここでは社会福祉学の立場から次のような危惧を表明したい。 1.どのような正義の名の下においても、いったん始められた軍事活動は、それが「後方」支援であろうと、同盟国への支援であろうと、そこに巻き込まれた国々の人びとの命と日常生活を一瞬にして奪い、孤児や傷病・障害者を増やすだけでなく、それらの深い傷跡が、人びとの生活に長い影響を与え、しばしば世代を超えて受け継がれていく実態がある。 2.子ども、障害者・病者など「血を流す貢献」ができない人びとが、こうした事態の中で最も弱い立場に追いやられる。また民族や性別、階層の分断や排除が強められ、テロ等の温床にもなる悪循環が作られていく。 3.これらから生ずる「犠牲者」への援護施策とそのための財政その他の社会的コストは一時的なものではなく長期に要請されることに特に留意したい。戦後70年経ってなお、戦争犠牲者への援護行政が続けられ、またそれを巡ってアジアの諸国との対立が続いていることがその一端を示している。 4.財政再建を理由に社会保障・社会福祉費の削減が続いている今日、もし「積極的貢献」の負担増がこれに優先するようになれば、少子高齢化が深まる日本の社会福祉の未来は、更に暗いものとなろう。 2 他方で、日本社会福祉学会『社会福祉学研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(2004)所収の論文「戦後社会福祉の総括」において、著者阿部志郎氏は、戦後社会福祉が「戦時の「万民翼賛体制」のもとでの厚生事業との断絶があり、国家主義の否定の上に、戦後の民主的な社会福祉が到来したと認識しがちである」とし、自らも含めて日本の社会福祉が戦争責任を自覚してこなかったし、「アジアの国々はもちろん、沖縄さえ視野におさめていなかった」ことを深く恥じていると率直に告白されている(p7~8)。その点が、ボランティア運動でさえ「罪責感」を基礎に再出発した戦後ドイツの社会福祉との「決定的相違」だとも強調されている(p8)。私たちは、この阿部氏の告白をあらためて真摯に受け止める必要がある。社会福祉は、一方で一人ひとりの生活に寄り添いながら、同時に「多数の正義」の名の下での支配体制に容易に組み込まれる危険を孕んでいる。このことに社会福祉研究者は常に自覚的でありたい。 3 日本社会福祉関連の各学会は、90年代より国際交流を活発化させ、特に東アジア3カ国ネットワークの実現に向けて努力してきた。また留学生への支援も強化しようとしている。こうした交流の中で、社会福祉の今日的課題の共通性とともに、文化・歴史的背景の違いについての理解も深められている。「戸締まり」に気を配るだけでなく、国を超えた共同研究や実践交流の積み重ねの中で、相互理解を深めていくプロセスをむしろ大事にしたい。残念ながら、最近の政治的「緊張」が、こうした地道な相互理解の努力に水をさすことがある。しかし、回り道のようでも、緊張を回避していく別の回路を模索することが、学会や研究者の役割であり、国際的な社会福祉研究の水準を高める上でも意味があると考える。 戦後70年目の8月15日を迎えるにあたって、社会福祉研究者・実践者として私たちは、「血」ではなく「智」による、「抑止力」ではなく「協力」による未来社会を展望する努力を続けることを誓い合いたい。 |
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歓迎します!
仲間たちにもわかりやすいように、漢字も少なくして表現の工夫がされています。 2015年8月15日 戦後70回目の終戦記念日にあたって きょうされんは戦争法案に反対します http://www.kyosaren.com/statement/2015/08/70.html?fb_action_ids=862662017147511&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%5B934794153247336%5D&action_type_map=%5B%22og.likes%22%5D&action_ref_map=%5B%5D 戦後70回目の終戦記念日にあたって きょうされんは戦争法案に反対します 2015年8月15日 きょうされん常任理事会 きょうは終戦から70年目の日です。戦争では、日本とアジアのおおくの人がなくなりました。そして、たくさんの人がからだや心に障害をおい、今なお苦しんでいる人がすくなくありません。わたしたちの先輩は「もう二度と戦争はしない」とかたくちかって日本国憲法をつくり、いままでまもってきました。 しかしいま、国会では戦争法案がはなしあわれています。なまえは「国際平和支援法」「平和安全法制整備法」ですが、なかみは正反対で日本を戦争のできる国にするものです。憲法にくわしい学者のほとんどが、この法案は憲法違反だといっています。「日本をまもるためにこの法律をつくる」というのはまっかなうそなのです。国会のまわりをはじめ日本中で、この法案に反対するあつまりが毎日のようにおこなわれています。 70年前の戦争では、障害のある人は戦争のじゃまになる穀つぶし、非国民といわれました。ドイツではヒトラー政権がたくさんのユダヤ人を虐殺するまえに、障害のある人を予行演習としてたくさん殺していたことがわかってきました。あまりにむごいことですが、戦争でまっさきに命や人としてのほこりをうばわれるのは、障害のある人などの支援を必要とする人なのです。 障害者権利条約も障害のある人のくらしも平和な社会でしかなりたちません。このことは、世界の歴史が証明しています。社会保障制度を充実させ、障害のある人の命とほこりをまもるためにも、戦争法案はぜったいにうけいれられません。はっきりと反対の声をあげたいとおもいます。 きのう発表の内閣総理大臣談話では憲法9条1項にならって「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」とのべられていますが、戦力をもつことと国が戦争をすることをみとめないとする9条2項にはふれませんでした。そして、政府は戦争法が成立したときのことをかんがえて、自衛隊の戦場での行動計画をつくりはじめています。戦争のできる国にしたいという政府のほんとうの気持ちはなにもかわっていないのだとおもいます。 わたしたちは、戦争をしないとちかった憲法9条と、障害者政策や社会保障制度の根っこである25条をまもりぬくために、これからも戦争法案に反対するおおくの市民のみなさんと力をあわせます。
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学童疎開、それは子供たちを次世代の戦力として温存する「学童の戦闘配置」だった。そうした中、障害児は兵隊になれない「厄介者」ということで疎開政策からとり残された。
■戦闘配置されず~肢体不自由児たちの学童疎開~|ETV特集 2014/08/09 http://www.dailymotion.com/…/x237vj8_%E6%88%A6%E9%97%98%E9%… NHKEテレの「ETV特集」で戦闘配置されず~肢体不自由児たちの学童疎開~が放送されました。戦争末期に国が行った学童疎開。アメリカ軍による空襲の危機が本土に迫る中、大都市の子供たちは安全な地方の農村地帯に移されました。それは子供たちを次世代の戦力として温存する学童の戦闘配置とされました。しかし肢体不自由児たちは学童疎開から取り残されました。そのことは肢体不自由児の学校に残されているフィルムが物語っています。空襲が始まっても子供たちはやむなく避難生活を都内の校舎で送っていたのです。肢体不自由児たちはなぜ学童疎開から取り残されたのでしょうか?
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教師をめざす実習生は必読、必聴です。
私自身、九大教育学部時代に三上満さんの教育実践の本をたくさん読みました。 私の人間観・教育観の基礎、生き方の基礎を作ってくれた方です。 先生とはもちろん面識はありませんが、全国教育系学生ゼミナールの先輩で、東京大学教育学部を卒業後、1955年に東京都公立中学校の社会科教諭となって、文京区と葛飾区の公立中学校に勤務し、非行対策などの教育実践を積み重ねました。マンさんの教育実践は「3年B組金八先生」のモデルになったのです。 クリック→三上満さんの紹介概要 |
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仲間を知るには彼の今だけ見るのではなく、彼をその歴史の中で見ることが大事です。 ・・・・心まで壊し、さまよった挙句、「福祉」を頼ってきたタッチン。 入所当初は、目を合わせることも出来ず、話もしなかった。 数ヶ月して転機が訪れた、それはほんの小さなきっかけだった。 重い荷物をもてない女子職員が、タッチンに「そこにある荷物を運んで下さい」とたのんだ。返事もせず、それでも彼は、ひょいと持ち上げ運んだ。 「ああ、やっぱりタッチンは男やね。力がある。ありがとう。」と職員が言ったその時である。 タッチンは初めて、職員の顔を見て言った。 「そっ、そう!そういうことオレにを言って欲しいとよ!ちゃんとね!」と一言。 一年目の若い女子職員は、その一言を聞き逃さなかった。「認めて欲しかったんやね。」 痛いほどに、黙りこくってしまいたいほど、そして心が壊れるほどに、・・・自分の事を認めて欲しかったのだ。 みんな、誰かの役に立つ存在でありたい、誰かに喜ばれる存在でありたいと思う。 働く存在とはその思いを表現する存在なのだと思う。 ・・・そして、実習日誌の書き方についていえば、 、一般的に「認められることによって、落ち着いてきました」ではなく、その決定的な事実、本質を示すその事実を書くこと。 自分や、分かる人だけが分かる文章じゃなく、第三者が見てもわかるような記録の書き方を身に着けなければなりません。 下のリンク先のブログを読んでください。 |
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この間の一連の社会福祉切り捨て・後退=公的責任の後退や社会福祉事業への営利企業の参入などの動きの中で、社会福祉法人の在り方についても議論がなされてきました。
大きな視点から、公的責任のあり方、社会福祉事業の在り方について、きょうされんが見解を発表しました。 |
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インタビュー
自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと こちらからの転載です→http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm 新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さん。“健常な動き”を身につけるため、物心つく前から厳しいリハビリを受けました。しかしそれは、彼にとって「身体に合わない規範を押し付けられる」という体験でした。成長とともにリハビリをやめ、自分らしいあり方を模索。大学進学をきっかけに親元を離れて一人暮らしを始め、試行錯誤しながら自立生活を確立していきました。医学部を卒業後、小児科医となった熊谷さんに、障害を持って生きていくことについてお聞きしました。 PROFILE 熊谷晋一郎さん (くまがやしんいちろう) 小児科医/東京大学先端科学技術研究センター・特任講師 1977年、山口県生まれ。小児科医。新生児仮死の後遺症で脳性まひに、以後車いす生活となる。小中高と普通学校で統合教育を経験。大学在学中は全国障害学生支援センターのスタッフとして、他の障害者とともに高等教育支援活動をおこなう。東京大学医学部卒業後、病院勤務等を経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任講師、UTCP(東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」)共同研究員。現在も週に2日、民間のクリニックに小児科医として勤務。小児科という「発達」を扱う現場で思考しつつ、さまざまな当事者と共同研究をおこなう。「官能」をキーワードに障害や身体について考察した『リハビリの夜』(医学書院)が、2010年新潮ドキュメント賞を受賞。その他の共著書に『発達障害当事者研究』(医学書院)、『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』(NHK出版)。 脳性まひとはどういう障害ですか? 出生時に呼吸が止まるなどのアクシデントが起きて、その後遺症で運動機能や姿勢を維持する脳機能に障害が生じた状態のことです。基本的に、症状がそれ以上進行することはありません。アクシデントにはさまざまな原因があり、脳のどの場所が傷んだか、障害の表れ方も人それぞれなのですが、十把一絡げに「脳性まひ」と診断されます。私の場合は、「痙直型(けいちょくがた)」といい、言語障害はそれほど重くはないですが、常に身体が緊張していて、うまく体が操れないというタイプです。 子どもの頃のリハビリは壮絶だったそうですね。 物心つく前から厳しいリハビリを受けていました。私が幼かった頃は“心に介入するリハビリ”の全盛期。脳性まひは身体そのものではなく「脳」の問題であるということが、「心や人格」の問題に拡大解釈されていました。それで、リハビリがうまくいかないのは私自身の努力が足りないだからだと。意志の問題だから天井なしに目標を設定され、延々と続く“ がんばり地獄”の状態。親やトレーナーに一挙手一投足を監視され、「心」を指導され続けました。家ではもちろん、定期的に泊りがけのリハビリキャンプに参加するなど、“健常な動き”ができるようにと、自分の身体には合わない動きを強いられるリハビリ中心の生活でした。 けれども、小学生まではリハビリに一日何時間もかけていたのが、成長とともに徐々に減っていき、高校生の頃には体をほぐす程度のストレッチだけで、リハビリキャンプにも通わなくなりました。当初、母は親心から「息子を苦労させたくない」「人並みの体にしてあげたい」という思いがとても強かった。でも私が成長するにつれ、「この子は絵を描くのが好きらしい」「勉強している時の方が楽しそう」と、リハビリ以外の私の様子にも目を向けるようになりました。それで「何が何でも健常者のようにしなきゃいけない」という思いは徐々に薄れていったんじゃないかなと思います。 一人暮らしを始めたいきさつは? 小学生の頃、ふと、「親が先に死んでしまったら、自分は生きていかれない」と気づきました。当時の私は、生活全般、食事をするのも学校に行くのも、何でも親の介助を受けていましたから。この不安は年齢を重ねるにしたがって大きくなっていきました。親なしで暮らせる“実験”を早めにしておかないとまずいと思っていました。それで、高校を卒業し東京の大学へ進学するのをきっかけに親から離れるというのが、最初で最後のチャンスになるような気がしたんですね。親は当然、猛反対しました。うまくいかなかったら帰ってきなさいとも言っていましたが、自分の中では、ダメだったら実家に帰るという選択肢は無かったですね。 地域で一人暮らしをしている先輩障害者の姿を、子どもの頃になんとなく見ていたこともあって、「自分にもできるはずだ」という確信があったのも大きかったと思います。具体的にどうやっているのかは分からないけど、明らかに自分より障害の重い人が一人暮らしできている。その事実が背中を押してくれました。 一人暮らしを始めて、まず困ったのはトイレでした。最初はなにも手を加えていないトイレで、介助してくれる人もいなくて、失禁してしまった。でも、こう体を動かしたらうまくいくんじゃないかとか、ここに手すりを付けたら使えるんじゃないかとか、試行錯誤していくのは楽しい実験でしたね。私も物に合せて動きを変えるし、物も私に合せて形を変える。どちらかが一方的に譲歩するんじゃなくて、物と私が「互いに歩み寄る」。一人暮らしの体験は、生まれて初めて世界と直接交渉することができた、そんなわくわくする感じがしました。それまでは世界と私の間には、いつも親が挟まっていて、「向こう側がよく見えない、じれったい!」みたいな感じでしたからね。 “自立”とはどういうことでしょうか? 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。 最近の障害者介助について、どう感じていますか? 昔に比べて障害者の介助の現場は「メニューが増えた」と思います。以前は制度自体がなく、生活を組み立てるときには限られた人・ものを活用しながら、なんとか手作業で作り上げていく感じでしたね。それに比べると、自立支援法成立以後はそういったことが自動化して、制度に乗ってさえしまえば介助者を見つけるのには苦労しなくなりました。 ところが、震災が起きたときに誰も様子を見に来てくれないとか、あるいはそこまで大きいことでなくても、失禁したときに介助を頼もうにも誰にも電話が通じないということがこれまで何度もありました。失禁は不測の事態の顕著な例で、なるべく早くなんとかしたいわけです。それなのに、そういう時にかぎってシステムが全然機能しない。以前に比べて、不測の事態に融通が利かなく、使い勝手が悪くなったと思います。 システムに乗らないものを許さない風潮というか、制度どおりにおこなわれているかどうかを監視するのに、現場が忙殺されているような状態です。それに、あらかじめ決められていること以外は許されないので、介助者との人間関係が深まらなくなった感じがします。心の通じない相手がしてくれる介助は痛いから、怖いんですよね。 何でもカテゴリー化して制度を作っていくだけでは、制度に乗りきらない人たちが永遠に生み出され続けていくことになります。首尾よく乗れた人も窮屈に感じるんじゃないでしょうか。メニューがそろって自己選択できるのだけど、いったん選択するとそれに従わざるを得なくなるような圧迫感があります。障害者の自立生活運動では「施設から地域へ」がスローガンだったのに、窮屈な施設から飛び出した先の地域が“ 施設化”していた、という感じです。 一言で言うなら「揺らぎが無くなった」「揺らげなくなった」ということでしょうか。そしてそれは、世の中全体に着実に浸透しているような気がします。ガチガチに固定されているシステムは、揺らぐことができる「余白」、その場の状況に応じた選択・決定を可能にする余地や余裕がないために、リスクが高く、効率も悪いものです。「揺らぎ」がなくてはイノベーションも起きません。こういった「揺らぎ」や「遊び」という要素をどう維持していくかというのが、今後世の中のことを考えていく上での重要な課題になっていくだろうと思います。 絶望的な世の中に、どのように希望を見出せばよいでしょうか? 「自立」と「依存」という言葉の関係によく似ていますが、「希望」の反対語は「絶望」ではないと思います。絶望を分かち合うことができた先に、希望があるんです。 先日、当事者研究の集会に参加したときのことです。精神障害や発達障害を持ち、絶望を一人で抱えてきた大勢の人たちに会いました。そのとき感じた感覚はなんとも言葉にしがたかった。さまざまな絶望体験を互いに話し、共有することで、「もう何があっても大丈夫だ」っていう、不思議な勇気というか希望のようなものが生まれる。話や思いを共有できたからといって、実際には問題は何も解決していないのだけど、それで得られる心の変化はとても大きいんです。 私は長い間、失禁の問題を誰にも話せず、心の中に抱え込んでいました。けれどある日のこと、外出先で漏らしてしまって、通りすがりの人にきれいに洗ってもらったことがあったんです。私は一人で抱えていた絶望を見ず知らずの他人と分かち合えたと思いました。このとき「世界はアウェー(敵地)じゃなかった!」という絶大な希望を感じたんです。たった一人で抱えてきたことを他人に話し、分かち合うことができるようになって、「もう大丈夫」と思えるようになったことは、私にとってとても大きかったですね。絶望が、深ければ深いほど、それを共有できたときに生まれる希望は力強いんですよ。 インタビュー/鎌田 晋明(東京都人権啓発センター) 編集/脇田 真也 |
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「社会保障を壊して人権を奪う国づくり」と「戦争のできる国づくり」は一体のものです。「障害発生の最大の原因は戦争による暴力です。戦争と障害者のしあわせは絶対に両立しません。障害者は平和でなければ生きられないのです」
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(実習課題)③
「陶友の原点」を知っておいてください。 この基本思想が今に貫かれています(?) もう23年前、所長が38歳の時でした。若くもあり未熟なところもありますが、・・・こうして陶友は始まりました。 先ずは、気が付いた人からはじめよう。 そして、みんなでやろう・・・ ただ単に、創始者の主観的な思いからではなく、社会的な要請を読み取ってください。 |
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(実習課題)①これは解りやすい!
一緒に勉強しましょ!。 福祉のしごとは憲法に保障された個人の尊厳、基本的人権を守る仕事です。 目先のいろいろに振り回されずに、大きな視点でとらえるために憲法をしっかり身につけましょう。 約一時間の公演が動画に収められています。 「 憲法ってなあに?」 憲法改正ってどういうこと? 伊藤真さんが、自民党改憲草案を中心に、わかりやすく解説 http://www.youtube.com/watch?v=5X69Fq_DxWM&feature=share |
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(実習課題)②
・仲間たちにとって、ひいては私たち人間にとって「働く」とはどういうことでしょうか? あわせて、実習に対する構えで参考にしてほしいこと(ある実習生の経験から) 以下を参考に・・・。 |
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★ 「やっぱり自分が好きです。・・・また、自分の人生が始まりました」
ふみさん(58歳)が、きょうされん全国大会参加の感想文と写真を持ってきてくれました。書かずにはおれなかったようです。 事故で一人娘を亡くしてから、どうしても自分が生きてることを肯定しきれなかったふみさん・・・。 ふみさんの了解を得てここに紹介します。 |
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